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「さよならテレビ」1月2〜31日名古屋シネマテークで上映

 東海テレビ開局60周年記念番組「さよならテレビ」(77分)に新たなシーンを加えた映画化作品が2020年1月2〜31日、名古屋・今池の名古屋シネマテークで公開される。「ヤクザと憲法」「人生フルーツ」などに続く東海テレビドキュメンタリー劇場第12弾。阿武野勝彦プロデューサー、圡方宏史監督。109分。
 もともとは、2018年に東海テレビローカルで放送されたドキュメンタリー。テレビ局が外に向けていたカメラを「危機的」なテレビ局内部に向けた自画像である。自らを裸にしていくかのような企画は、取材当初からハレーションを引き起こし、放送後、テーマのみならず、挑発的な演出が大きな反響を呼んだ。テレビ関係者等の中で話題となり、番組を録画したDVDが全国の映像制作者に出回ったほか、「あいちトリエンナーレ2019」映像プログラムの1つとしても上映された。
 

 東海テレビ放送の報道部に、自社のドキュメンタリー班が密着取材する。途中までは淡々と進み、その後、登場人物たちの葛藤が描かれ、最後にひっ切り返す。これは、かなり戦略的に作られたドキュメンタリーである。ドラマではないのかと思う場面がかなりある。
 筆者は、森達也監督が佐村河内守氏の素顔を撮った「FAKE」を思い出した。これがドキュメンタリーなのかどうか、などと言いたいわけではない。優れたドキュメンタリーだと思う。また、「あいちトリエンナーレ2019」のwebサイトに書いてあったように、「どこまでが事実で、どこからが演出か。メディアリテラシーが問われる」というのとも少し違う。確かにそういう部分はあるが、筆者が新聞社に30年以上在籍している人間として、このドキュメンタリーによって考えさせられたことは随分異なるのだ。
 つまり、複雑な現実の事象、あるいは伝えるべきことがあふれるこの社会と、型にはめてお決まりの情報として報道する記事や放送との間には、大きな溝があるのではないかということである。型、パターン、習慣、業界の構造の中での競争に埋没する中で、伝えられないものがある、あるいは、逆に取材相手との癒着や演出といわれかねないものがある。放送や新聞などの旧メディアがそういう存在になっている、このドキュメンタリーは、それを暴露した。これが本当の現実であると。

 主人公は3人である。経済紙出身の契約社員、澤村慎太郎、入社16年目の福島智之アナウンサー、制作会社からの派遣社員で、ほとんど新人記者である24歳の渡邊雅之。筆者も知らなかったのだが、テレビ局では、全員が正社員ではなく、派遣社員や契約社員などの身分で取材をしている人が結構いるらしい。
 澤村は、テレビ局の報道のあり方に疑問を感じている、真っ当に物を考える男。福島は、穏やかで生真面目、手堅い半面、煮え切らない部分を持っている。渡邊は、いいかげんなヤツとまでは言わないまでも、自己管理も仕事もできるタイプではない。3人とも俳優かと思うぐらいに、それぞれの「役」をさせられている(ように見える)。
 ただ、どこの組織でも、ラインにいるエリートより、周辺にいる人間の方が組織を冷静に見られるし、組織のあり方に鋭敏である。そういう人こそ、組織の矛盾を体現すると言ってもいい。そして、この映画を見た多くの人が一番共感するのは、澤村だろう。逆に社内で出世するエリートは矛盾に気がつかないか、見て見ぬふりをするので思い悩むことはない。
 冒頭近く、ディレクター(監督)の圡方宏史が、取材対象となる報道部に撮影の企画について説明すると、デスクや報道記者などから反対が起きる。取材していた側が逆に取材される側になるのだから、反発は当然、予想される。2カ月の撮影中断の後、マイクは机に置かない、打ち合わせの撮影は許可を得る、放送前に試写をするという取り決めが結ばれ、撮影が再開する。
 映像の中では、ニュース番組においてさえ、視聴率やスポンサーがテレビ局を動かしていることが繰り返し、印象付けられる。また、2011年に東海テレビのローカルワイド番組「ぴーかんテレビ」の生放送中に誤ったテロップが流れた「怪しいお米」「セシウムさん」問題が局内に暗い影を投げかけていることも分かる。毎年8月4日に開かれる社内の「放送倫理を考える全社集会」の映像も流れる。澤村が企画し取材する「共謀罪」を巡る放送内容への同調圧力‥‥。

さよならテレビ

新聞社、テレビ局など、かつて「第4の権力」と言われたマスコミは、ジャーナリズムという建前の下、外には強く、内には弱さをはらんでいたのではないか。一般の人たちが自ら発信する方法を持たなかった時代には、テレビ放送や新聞宅配を通じて各世帯に届けられる、幕の内弁当のようなお決まりの定番情報が支配力を持った。
インターネットメディアとSNSの脅威にさらされ、若者を中心にテレビを見ない、新聞を読まないという人が急増する中で、地方テレビ局も新聞社も、視聴率、激減する部数との格闘の中で、ジャーナリズムとは何か、自らの存在意義は何なのかに改めて直面することになった。労働環境の改善など時代の要請や、視聴者、読者など情報の受け手の意識変化もある中で、隠れていた矛盾が自らの内にも、外にも齟齬を生みつつある。
澤村が映画の中で強調する「日本のメディアはまず会社員である」という言葉に強くうなずいた。今に始まったことではない。もともと、そうだったのだ。第4の権力として確たる地位を保証され、経営が絶対的な安定の上にあるときは、それでもやり過ごせた。結局、先送りされ、覆い隠されてきたことが多くあるのだろう。今、それはほとんど変わらないどころか、悪い方に向かっているようにも思える。「さよならテレビ」は、テレビや新聞の、この居心地の悪い現状をよく伝えている作品だと思う。
「さよならテレビ」の中で、東海テレビが、よりテレビを見る年齢層である60歳以上の視聴者向けに番組内容を変更しようとする場面があるが、新聞も同じである。危機の時代に新たな方向を切り開くというよりは、現在の読者、視聴者の中心である60歳以上に逃げられないようにすることに躍起である。社内で評価されるのは、警察など当局の発表前に、他社より早く報道する記者。もはや幻想の正論の中に生きているのかもしれない。
澤村が飲み屋で問いかける場面がある。社会の問題が解決するまで、ぎりぎりまで考えて表現するのがジャーナリズムではないかと。現実には、目先の視聴率に振り回されているのに。ヒリヒリとした映像の末に、澤村が問う。ドキュメンタリーにとって現実とは何なのか。何のために撮っているのか。テレビとして成立するために現実を(都合よく)切り取っているだけではないか。現実の複雑さ、豊かさ、深さは、もっと違うのではないか。テレビの闇って、もっと深いんじゃないか。澤村の言葉は痛切である。

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