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あいちトリエンナーレ 映像プログラム始まる 9月29日まで

「あいちトリエンナーレ2019」の映像プログラムが、2019年9月15日、愛知芸術文化センター12階、アートスペースAを会場に始まった。国内外の14組の15作品を上映する。初日は、「コンゴ裁判」(ミロ・ラウ監督、105分/2017年)、「空に聞く」(愛知芸術文化センター・愛知県美術館オリジナル映像作品、小森はるか監督、75分/2018年)、「Grand Bouquet」(吉開菜央監督、15分/2019年)の3作品が上映され、多くの観客が詰め掛けた。津田大介芸術監督と、小森、吉開両監督とのアフタートークも盛り上がった。映像プログラムは9月29日まで。上映スケジュールはトリエンナーレのweb
 鑑賞には国際現代美術展のチケットが必要。当日の最初の上映時間の30分前から、その日の全ての上映作品の整理券が配られる。
 9月15日は、午前11時から、ミロ・ラウ監督の「コンゴ裁判」を上映。午前9時半頃から、整理券を求める観客が並び始めた。「コンゴ裁判」は、紛争や虐殺が続くコンゴで当事者たちに本人役で出演を依頼し、演劇として行った模擬裁判の記録映像。演劇とジャーナリズムが交差し、腐敗、癒着、収奪、強姦、抵抗、虐殺、汚染の事実が浮き彫りとなり、社会を動かす。

小森はるか
「空に聞く」 2018年(愛知芸術文化センター・愛知県美術館オリ ジナル映像作品) © Haruka Komori

続いて、午後2時から上映された小森はるか監督「空に聞く」は、東日本大震災後に各地に設けられた災害FM局のひとつ、岩手県陸前高田災害FMでパーソナリティを務めた阿部裕美さんを追ったドキュメンタリー。陸前高田市で種苗店を営む男性の2年半を描き、高い評価を得た前作「息の跡」(2016年)と並行した時期に撮影され、愛知芸術文化センター・愛知県美術館オリジナル映像作品第27作として完成した。
上映後のトークでは、撮影当時のことを振り返った。大学院にいた2011年ごろは、東京から通いながら撮影。その後、「被災地の変化が激しく、通っているだけでは大事なものを取りこぼす」と、2012年から陸前高田市に移り住んだ。阿部さんについては、「自分も両親を津波で亡くしたのに、当事者の語りでなく、街のため、亡くなられた人のためと行動する凛とした姿にひかれた」と発言。カメラは、そんな阿部さんが、地域の人たちの記憶や思いに触れ、彼らの声をラジオを通じて届ける日々を親密な距離で綴る。震災後は、誰もかれも心が折れ、コミュニティーがバラバラになる状況。小森監督は、「情報というより、阿部さんが生活音とともに何かを伝えようとしていること、話しかけていることが、聞いている人の支えになっていた」と語った。
津波で流された街の復興が着々と進み、嵩上げされた土地に新しい街が造成されてゆく様子も描く。いろいろな思いが交錯するが、小森監督は説明的なナレーションは入れない。映画の終盤で、阿部さんも、津波で壊滅した市街地を嵩上げした土地で和食「味彩(あじさい)」を再開。「阿部さんも、七回忌を終えて、反対していた嵩上げによるまちづくりを全てではないにしても受け入れる。この街で生きていくんだという阿部さんの気持ちが分かる」。小森監督はそう振り返り、明瞭な賛否やメッセージを表明するのでなく、その人を見続け、声を聞き続けることで、割り切れない感情そのままに丁寧に記録することで忘却に抵抗する自身の映画スタイルを強調していた。

「Grand Bouquet」(2019年)© 吉開菜央

 吉開菜央監督「Grand Bouquet」は午後4時半から上映。2018年6月〜19年3月、東京・NTTインターコミュニケーション・センター(ICC)で上映された際、施設を運営するNTT東日本側の要請で一部表現が規制されて公開され、美術評論家連盟から、改変に対し公開質問状が出されるなど物議をかもした作品である。今年のカンヌ国際映画祭監督週間では完全版で上映され、今回も完全版で公開された。
 若い女性が、もずくの塊のような黒い謎の物体の攻撃を受け、女性は何かを訴えようとするが、言葉を発することができない。女性が口から吐き出すねっとりとした花が増殖し、やがて深遠なる森林が現れる—。女性性と身体性、体の内部と外界、自然と人間、内と外の反転、成長と進化。奇抜な発想ながら、そんな言葉が連想される実験映像である。全体には、抑圧されていた女性の内なる体が森へと成長するという変化が展開する。グロテスクではあるが、ICCで、どこが問題になったのか分からないほど真っ当な作品。トークでは、ICCで完全版で上映できなかった過程を振り返りながら、自己検閲・自主規制、差別に対する知識の欠如など日本でのこうした事例全般に敷衍した問題点や、「不快な表現」という曖昧な言葉が一人歩きしていく現状が指摘された。

 この作品は元々、「触覚性のある映画を」との趣旨で制作されたが、同時に音響も重要な要素。吉開監督は「制作するときは、絵のイメージが先にあるタイプで、ドローイングをいっぱい描いた。絵と音に〈振り付け〉をして、作曲するように制作する。作品を通じて、喜怒哀楽のような分類がつくまえの情動を動かしたい」と言う。黒い塊は「神経細胞のような細く複雑なものでできているイメージ」、音は「体内で鳴っていそうな音を意識している」。吉開監督の映像は多様な解釈を誘発する。吉開監督は、映像イメージの展開について、「円環構造」「バタフライ効果」「禅問答のような感覚」などの言葉を使って説明。身体内の小さな変化が世界や宇宙につながる感覚、内側と外側がひっくり返るような世界観、自己と他者が一体化し内包化されるようなイメージ、終わりが始まりになっている不思議さなどが想起される映像である。